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デッサンとは
ウィキペディアを引く1)とデッサンは素描の項目へ転送され、素描・デッサン・ドローイングと抱合せとなって次のように説明されている。「物体の形体、明暗などを平面に描画する美術の制作技法、過程、あるいは作品のこと。これに準ずるものを指す場合もある。 」なんとも乱暴な説明になっている。
個人的にはデッサンを素描と同じとする考えには賛成だけれども、ドローイングと一緒に語るのは乱暴だと考えている。ドローイングは英語のdrawのing型なので<描くこと>である。描くというのは画面に画材を配置する行為であり、ドローイングはこの画材配置の行為そのもの。これに対して、デッサンの主な仕事は観察と理解・解釈だと思っている。
人がモチーフを見て、画面に落とし込むプロセス
目>脳>手>画面
ひとが目の前にあるモチーフを描くとき、主に目からの視覚情報を取り込んで、モチーフの状況を取材する。この情報が脳に渡って解釈され、ここに過去の経験や独自の解釈が加味されて、認識が形成される。続いて脳内では、この認識を元にして、どのような画面を作るかの計画が設計されて、主題や構図などが決まる。この設計に沿って、画面上に画材が配置されて、絵が完成に向かって変化する。
画面>脳>目>脳>画面
画面に作画の形跡が残ってくると、作者はこれを視覚で捉えて再評価できるようになる。脳にはモチーフから得た視覚情報と、画面から得た視覚情報とがあり、これらを比較して、画面を評価。次の手を考え、画面に落とし込む。
完成
モチーフと画面との差を評価し続けるうちに、一定以下まで差が埋まった状態にたどりつくとする。このとき、作者は<できた>と自覚して、作業に区切りがつく。
デッサンとドローイングの違い
ドローイングは前述したとおり、画面に画材を配置する作業を表現した言葉である。これに対して、デッサンとは、モチーフから価値のある情報を汲み取って、認識し、認知し、思考して、どういう画面をつくるかの設計をするところまでが、重要だと考えている。このプロセスを確実に経ることがデッサンの価値であり、逆にこのプロセスをおろそかにした描画は、どんなに上手に描いても、写真を代行する<作業>でしかない。
デッサンでもっとも価値のあること
つまり、デッサンでは
- モチーフをよく観察すること
- 対象から的確に要素を拾い集めて自分の中に明確なイメージを再構成すること
- 再構成したものを画面に確実に落とし込むこと
がそろっている必要がある。
観察ができることで、イメージが形成され、イメージがあるから画面に落とし込める。
つまり、このプロセスは連続していてどれも欠くことができない。どこかが欠ければ、そのあとのプロセスが成立しない。
3つのプロセスの完成度が高まって相乗することで、デッサンの完成度が上がってゆく。3つともすべてのプロセスをぐるぐる回してゆくことで、その結果として、画面が完成してゆく。
デッサンは作品ではない
デッサンは行為そのものであって、作品ではないと思ってます。また、デッサンに於ける画面は、作品のように<作るもの>ではなく、証跡だと思ってます。正しくデッサンを行うことによって、その結果として残るものが、画面です。なので、デッサンには明確なゴールはなく、デッサン行為が終わった後に、そのフットプリントのように、残るものだと考えます。デッサンを作品として捉えてしまうと、完成型が存在することになり、そこから逆算したプロセスを踏むことになり、デッサン行為自体が破綻してしまうことになるので、そもそもデッサンではなくなってしまいます。
例えるなら、デッサンは、関取がてっぽう稽古をした跡の柱の黒ずみであり、料理人のちびた包丁であり、芸人の積み上がったネタ帳であり、ギタリストのギターについたピックの跡であり、八百屋の店舗裏の空箱の山なのです。
だから<作品>ではないのです。
愚かな失敗・退屈な画面
デッサンで重要なことは、観察・再構築・画面への落とし込み、であるので、これらのサイクルが疎かになったまま、作業だけが進行してしまう状態の画面には価値がない。観察が不十分なまま作画を急げば、画面の設計ができていないため、構図がきまらない、形がわからない、違いがわからない、完成しているかわからない。。。迷走するばかり。最終的にはてきとうに辻褄だけを合わせて画面を整えるので、なんとも味のわるい画面だけができあがってしまう。イミテーションの造花のような、退屈な人工物が出来上がってしまう。